2007年6月27日付The Japan Times)
 

ニホンの感性をもったアラビア書道

古いムスリム芸術の日本の達人
                                            スタッフライター小竹(おたけ)朝子(ともこ)による

本田孝一にとって、美しい線を書くのは人生そのものである。詳細全てを正しく理解すること−微妙なカーブ、様々な幅、そしてインクの濃淡−は、彼にとって人生そのものと同じくらい重要である。

埼玉にある大東文化大学国際関係学部の61歳の教授は有数のアラビア書道の権威である。アラビア書道は1400年以上の時の経過をもって発展してきた宗教芸術形態であるが、書く際にひとつひとつの面を決定する詳細なルールを持っている。筆跡は紙や羊皮紙に書かれるか、モスクへのどんな訪問者も必ず驚かす華やかな陶磁器のタイルに焼かれたりしている。
しかし本田は単に日本の風変わりな人ではない。彼は現存するアラビア書道家の中で最高の一人として世界中に知られている。彼の作品「アッラーの顔」は、青、赤、黄(多分、緑の間違い。訳者注)のピラミッド型を背景にコーランを手書きした連作であるが、昨年、ロンドン大英博物館の永久コレクションに含まれるというとてつもない栄誉を与えられた。

本田のユニークな遍歴は東京外国語大学アラビア語学科の卒業から始まった。彼は外国語に興味はあったが、高校で英語を楽しんだのを除けば、アラビア語を特に大した理由で選んだのではなく、アラビア語学科は入りやすかったからであった。 

大学在籍時、日本中同時代の生徒たちは1960年代の学生運動により混乱の中に放り込まれていた。級友たちは校門にバリケードを築き、熱烈なスローガンを怒鳴り、警官と対峙して忙しかった一方、本田は、宮沢賢治(1896−1933)の作品に刺激されていた。そして彼のような童謡作家になる日のことを夢見ていたという。 

そこで大学卒業後、傑作を創るのを試みながら、神奈川県の小さなアパートで四年間引きこもって過ごした。しかし、できなかった。「何日も、私は机の前に座った。しかし何も生み出されなかった。なぜなら自分の中に何もなかったから」と彼は言っている。

その頃、まだ彼は人生の意味ということを憧れていたが、彼は東京の調査会社に職を得た。その会社は地図作るために中東政府と契約を結んでいた。会社の中、あるいはひょっとしたら日本中で、当時数少ないアラビア語をしゃべる日本人の一人として、本田は1970年代に会社の通訳として、直ちにサウジアラビア、リビア、イエメンに送り込まれた。

自分の人生を変えた経験だったと本田は言う。

本田の5年間の中東での滞在には、20人強のグループを人里離れた場所へ連れて行き、地形だったり遊牧民ベドウィンが丘や川や山につけた名前を記録しながら何ヶ月も砂漠でキャンプしたことが含まれていた。

日本人の同僚は(アラビア語を話す人は殆どいなかったが)、地方回りの生活に殆ど順応しなかったが、本田はこの経験を心から楽しんだと言っている。彼は自然に近いことを愛し、現地スタッフも尻込みするような場所に行くのも楽しんだ。結局、彼の身体はコンパスのない、晴雨に関わらない方向を「感じ」始めていた、と言っている

 毛筆を使う中国や日本の書道とは異なって、葦や竹で作ったペンを使うアラビア書道芸術を発見したのもこの時期である。本田へのアラビア書道への手ほどきは、ある日起こった。彼が仕事でサウジ政府の航空探査部を訪問し、公式の書道を仕事で見たときであった。地図を含む公式文書に手書きすることは、サウジ政府にとってはその当時普通のことであった。彼は書道芸術は人々がコーランを正確にそして美しく写そうと試みて発展してきたことは知っていたが。

航空探査部門で本田は特に、書道家たちがワジ(涸川の跡)といって水がその地下で発見されることがある重要な場所のそばに、ワジと平行に、流れるようなアラビア文字の線を書いていた様子に感銘を受けた。

日本や中国伝統とは異なり、アラビア書道はしばしば丸や楕円を特徴づける形にデザインすることが、すぐに彼は分かった。このため、アラビア語のアルファベットの書き方はよりフレキシブルで、地図デザインを作るため、多くの線の長さを比較的自由に伸ばしたり、縮めたりすることができた。

「私はこの曲線の美しさに恋に落ちました。」と彼は思い出していた。その時まで、彼は日本を含む書道芸術のどんな形態にも興味をかつて示したことが無かったと認めている。本田は直ちに一人の書道家に基本を教えてくれるよう頼んだ。そしてテントで仕事の後、ひとりで練習した。それから、日本に戻った後も、その芸術の勉強を独学で続けた。彼の先生たちは、彼がサウジから持ち帰ったテキストであった。木の箸を用いて自分でペンを作った。日本に帰国して4−5年後の間に、彼はムスリムになり、イスラムネームをFuadとした。その意味は「心」。彼はムスリムになったことを余り話さなかった。なぜなら彼がムスリムになったのは、その信者たちのみが触れることを許されるコーランの言葉を勉強したかったからだった。

直ぐに彼の独学の技術は広く知られることになった。なぜなら日本ではアラビア書道の訓練を受けている日本人は他にいなかったからだ。パーティの横断幕から企業ロゴ、そして広告文に至るまでのあらゆることを書く注文が、東京にある外国大使館やアラビア語を話す国とビジネスをしている日本企業から彼の元になだれ込んだ。

しかし、1980年代にアラビア語のワープロ及びコンピュータの到来とともに、そのような注文はパタリとなくなった。様々のコンピュータのアラビア語フォントを作るのに手助けした彼にも少しは責任があったが。

イラン・イラク戦争の終盤の1988年に、イラク政府は本田をバグダッドの知名度の高いカリグラフィーフェスティバルに参加するよう招待した。そこには何百人という世界中からのプロが最高の作品を展示するため集まっていた。そこで本田はハッサン・チャラビー氏を含む偉大な書道家の名前を知るようになった。本田はそのトルコの達人に継続的なプライベートレッスンをお願いすると、彼の要求は受け入れられた。最終的に2000年に本田は彼から書道を教えることができる証書(イジャーザという。訳者注)をもらうことになった。

現在、自らの力で達人として、本田は、独特な色使いで自分のオリジナリティを見つけた。彼はいかに句読点を置くかについてのような詳細を決定している伝統的なアラビア書道のルールを守る一方、日本の遺産が伝統を破るのを助けたとも言っている。例えば、彼は背景に微妙な差違がある色のグラデーションを好んで使っており、他の多くの芸術家が派手な色をその他に対してコントラストさせているのと異なっていた。「私にとって、青は20以上の異なったバリエーションがある。」と本田は言った。「私の色は日本人としての私の感性を反映しています。」 

本田がサウジを訪れて以来30年が過ぎたが、彼の作品に息吹を与え続けているのはあの時代の砂漠の生活であると、背の高い、スリムな男は言う。彼は現在東京西部の神奈川県逗子の海岸の町に、妻と成人した娘さんと住んでいる。 

芸術を楽しむためにはムスリムやアラビア語の専門家である必要はありません、と本田は強調する。実際、増え続ける生徒たちの多くはムスリムではない。更にアラビア語さえ知らないものもいる。それでも、東京在サウジ大使館所属のアラブ・イスラーム学院の24人を含む生徒たちは非常に上手である、と明らかに満足げに彼は伝えている。 

3年ごとにイスタンブールのIRCICA(イスラム歴史・芸術・文化研究センター)が開催する権威ある書道芸術コンテストの一番最近の大会で、4人の日本人、そのうち3人は本田の生徒、が入賞した。それは記録破りの数字であると、2006年に本田とともに設立した日本アラビア書道協会の山岡幸一事務局長は言っている(この部分は本田先生が言った言葉です。訳者注)。これは画期的な発展であると山岡はいう。「海外の人々は何が日本で起こっているのかと驚くに違いない」(ここも本田先生が言った言葉です。訳者注)。 

しかし本田にとって、彼の生徒の成功は驚くにあたらない。「日本人は日本書道を学ぶ経験を通じて書道のバックグランドがある。」と本田は言った「たとえアラビア語を理解できなくても、その書体の美しさを鑑賞することができる。」。

「私にとって、文字にはいろいろなレベルでの美しさがある。一つのアルファベットのアラビア文字はそれ自体美しい。しかし、それが文の一部になると、別のレベルの美しさがある。そして文字がまるで生き物のように動き始める。」。

「私にとって、アラビア書道は音のない音楽のようである。」と彼は穏やかに微笑みながら言った。 

(写真のキャプション)

(左上)東京のアラブ・イスラーム学院で最近行われた授業で、本田孝一がアラビア文字の意味を解説している。

(中央)1999年の作品「赤い砂漠」の傍らにいるアラビア書道家本田孝一。この作品は東京の探査会社で働いていた中東で過ごした何年かに刺激されたものであり、4つの異なる書体で書かれたコーランからの引用文を描いている。(写真:小竹朝子)

(右上)本田孝一は神奈川県逗子の海岸近くの家で、彼の地下スタジオの静けさの中、アラビア書道の作品作りに取り組んでいる。

(下左)本田のクラス一つで、日本人のアラビア書道の生徒たちが芸術を静かにお稽古している。

(下左二番目)本田が作品の一部に完全に最後の正確な飾りを入れているクローズアップ

(下左三番目)アラビア書道で使われるいくつかの書体のうちの一つであるディーワーニ書体で書かれた楕円形の最終作品例

(下右)本田がいくつかのペンを見せる。これは竹から自分自身で作ったもの。 

(訳:山岡幸一)